華岡青洲といえば、1804年(文化元年)世界で初めて全身麻酔に成功し乳がんの摘出を行った医師であり、有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」でも知られている。青洲の業績は海外でも認められており、有吉佐和子の小説も英訳されている。
今回、青洲ゆかりの地、和歌山県紀の川市を訪ねた。難波駅から南海高野線特急こうや3号に乗車し、橋本駅でJR和歌山線に乗り換え名手駅で下車した。
JR和歌山線はICOCA圏外でワンマン運転で、無人駅からの乗車の場合、乗った駅名を告げて車内運転手に運賃を払うという感じのどかな雰囲気だった。名手駅をあとにし、青洲の妻 加恵の実家 妹背家の旧名手宿本陣を目指す。駅から10分ほど歩くと旧名手宿本陣がある。妹背家は大庄屋であり地士頭の待遇を受けていた。その家は大和街道に面していたため、紀州徳川家が参勤交代の際に本陣として使用された。
蔵もあり広い敷地に大きな家という印象でした。加恵も華岡家に嫁いだばかりのときは、実家に比べて質素というか貧しさが目立った感じだったようだったが、青洲が京から戻り名医として名が知られるようになり門人も増えると家の規模も加恵の実家を上回るようになるのでした。
座敷風呂、殿様が入った風呂
名手宿本陣をあとにし20分ほど歩くと道の駅青洲の里に着く、施設は改装中で閉鎖されていたが、門人たちの宿舎や病院を兼ねた春林軒の外観をみることができた。
春林軒のなかに華岡家発祥之地の石碑があった。
春林軒から北に100mほど行ったところに医聖華岡青洲顕彰記念公園の右隣に華岡家墓地がある。見取り図の7番が青洲、10番が妻の加恵、16番が母の於継の墓である。
大きい墓石が青洲、真後ろの矢印が加恵、さらに後ろ矢印が於継の墓石である。墓石の側面に俗名加恵とある。於継の墓石は風化が進み判読できなかった。
青洲が作った麻酔薬は全身麻酔薬といっても現代の吸入麻酔薬のようなガスではなく、チョウセンアサガオ(曼陀羅華)やトリカブト(附子、烏頭)を主成分とした生薬による全身麻酔だった。薬効が現れるのに数時間かかったといわれている。下の写真は麻酔薬 通仙散(麻沸散)の主成分の生薬の写真である。
青洲の里にある青洲の坐像
青洲は全身麻酔の方法を門人たちに教えなかった訳ではなさそうである。ただし安易に使用することを戒め、門外不出としていたようである。
追記(R3.3.10)
帰りの南海高野線の急行は6000系であった。この電車は日本で初めてオールステンレスで作られた車体で、このあと南海電車を引退し大井川鐡道(静岡県)に譲渡された。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊