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医史跡、医資料館探訪記28 少彦名神社とくすりの道修町資料館を訪ねて

道修町ミュージアムストリートの東端にくすりの道修町資料館少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)がある。ここ大阪道修町(どしょうまち)は、豊臣時代頃から薬種取引の場として、薬種業者が集まるようになっており、江戸時代になると幕府は道修町の薬種屋124軒を株仲間として、唐薬種や和薬種の適正を検査し全国へ売りさばく特権を与えた。薬は、人命に関わるものであり、その吟味は大変難しいものであることから、神のご加護によって職務を正しく遂行するため、1780年(安永9年)京都の五條天神より少彦名命(すくなひこなのみこと)を仲間の寄合所にお招きし神農炎帝王とともにお祀りしたのが少彦名神社の始まりとされている。

1822年(文政5年)に大阪でコレラが流行ったとき、道修町の薬種仲間が疫病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」という丸薬を作り、合わせて「神虎(張子の虎)」のお守りを作って神前で祈願した後、施与したことから張子の虎は万病平癒、無病息災のお守りとなった。

医史跡、医資料館探訪記28 少彦名神社とくすりの道修町資料館を訪ねて

くすりの道修町資料館は社務所のあるビルの3階にある。日祝休館、入場無料、写真撮影可である。

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くすりの町、道修町には、江戸時代の中期から昭和の終戦前までの薬業仲間の寄合所で保存されてきた文書群、約33,000点が残されている。江戸時代には、さまざまな業種ごとに同業組合が結成され、自主的に共同の利益を守るとともに幕府の経済政策の受け皿にもなっていたが、1872年(明治5年)の株仲間解散とともにすべてが崩壊し、それらの資料は散逸した。ところが道修町薬種中買仲間(どしゅうまちやくしゅなかがいなかま)は例外的に近代的な同業組合にうまく移行し、資料を「道修町文書」として残すことができた。この文書群は、天保年間の大塩平八郎の乱や第二次世界大戦の空襲などの災禍からも免れ、奇跡的に現在まで伝えられてきた貴重なものである。

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薬種御改指上申一札控帳表紙

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中央の丸薬が虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)と張子の虎

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江戸時代によく使われていた唐薬種

左上から杏仁(きょうにん)、半夏(はんげ)、麻黄(まおう)

甘草(かんぞう)、沢瀉(たくしゃ)

牛黄(ごおう)、人参(にんじん)、桂皮(けいひ)

牛黄は牛の胆石、それ以外は種子、塊茎、地上茎、根茎、皮片など植物由来である。

医史跡、医資料館探訪記28 少彦名神社とくすりの道修町資料館を訪ねて

中央奥の石が方解石(鉱物性生薬:炭酸カルシウム)、中央手前が羚羊(れいよう:カモシカ)の角、手前右手が海亀甲羅、これらも生薬の原料だっただろう。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊