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医史跡、医資料館探訪記49 桑田立斎ゆかりの地を訪ねて

桑田立斎(くわた りゅうさい)は、幕末の蘭方医。越後国(新潟県)新発田地蔵堂生まれ。村松正親の3男。1837年(天保8年)江戸に出て、坪井信道の日習堂に入門して蘭医学を学んだ。1841年(天保12年)1月蘭方医 桑田玄真の養子となり、人痘種痘法に熱心であった養父からその手法を学んだ。1842年(天保13年)に小名木川にかかる萬年橋の近く(現 東京都江東区清澄2丁目)に小児科を開業した。萬年橋は江戸時代初期にはかけられており葛飾北斎 富嶽三十六景「深川萬年橋下」にも描かれている。

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北斎の深川萬年橋下(左)、小名木川は隅田川にそそいでいる。現在の萬年橋(右)

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診療所があった場所は、東京メトロ半蔵門線清澄白河駅から徒歩7分くらいであろうか、現在は1階に商店の入ったマンションになっており、石碑は小さく目立たない。石碑はジェンナーの種痘発明200年を記念して桑田立斎先生顕彰会が平成10年に建立してものである。

1849年(嘉永2年)に蘭館医モーニッケによってもたらされた牛痘種痘法の意義をいち早く認めて、10万人の人々に牛痘接種を行おうとの悲願を自らに課して、これに専念した。1857年(安政4年)蝦夷地開発政策の一環として、アイヌに牛痘を強制接種する方針が幕府によって採用され、深瀬洋春と共に蝦夷地に渡ってこれに従事した。立斎は箱館から東に足をのばしてついに国後島まで達し、6400名余りのアイヌに牛痘接種を実施した。

立斎の墓は東浅草の保元寺にあり、都営地下鉄大江戸線に清澄白河駅から乗車し、蔵前駅で下車。蔵前駅前から都営バスで東浅草まで行き、そこから徒歩7分くらいである。

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門をくぐりすぐの右手に立斎の墓はある。榎本武揚一族の墓の左隣である。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊