医学の進歩の中で戦争の傷病者の治療というのは大きな割合を占めている。我が国においても戊辰戦争でみられたような銃創の治療においては、漢方医はほとんど無力であったし、むしろその治癒に対して害悪となるようなことしかできなかった。西洋医学が優位になる原因となったのであった。
先の大戦において受傷し義足となった者も多い。この度しょうけい館(戦傷病者史料館)の企画展「義足は語る~戦争で足を失った戦傷病者の歩み~」が、2021年(令和3年)7月14日(水)~9月12日(日)の期間で開催されているので訪ねてみた。
しょうけい館は東京メトロ半蔵門線九段下駅から徒歩1分でビルの1階にある。館内は、写真撮影禁止であるので、頂いたパンフレットの写真を転載する。
しょうけい館正面入り口(左)、企画展チラシ(右)。
大隈重信が爆弾テロにあい右足を失った。大隈が使用していた義足はアメリカ製のものであった。
明治時代は我が国の義足を作る技士の対応も未熟で大隈の満足するものではなかった。また、大隈の生活様式が西洋化していたこともアメリカ製義足の受け入れをよくしていた理由と考えられた。
先の大戦のころには我が国の義足も進歩し、草履や足袋が履きやすいように工夫されたりした。
正座できるように作られた義足は、まさに日本での生活様式に根差したものであった。
義足を使うようになると廃兵になることが多いが、なかには再び戦地に戻る者もいた。加藤 隼(はやぶさ)戦闘隊のパイロットはブレーキペダルが踏みにくいと足先部分を鍛冶屋で切断して使用していたという。「義足のエース」といわれていたという。
義足になった兵士はみな足に銃弾を受けガス壊疽になり、切断となっており、必要な麻酔薬、消毒薬もなく衛生兵も軍医たちのマンパワーも不足したなかで手術を受けているので、その苦痛から自ら命を絶つ者もいたという。また、鎮痛剤も満足にない時代のため創部があつく熱をもち発熱し喉の渇きを訴える者も多かったが、きれいな水がなく、皆アメーバ赤痢に罹ったという。
足を失った者には国から義足が、腕を失った者には義手が国から支給された。支給された義足のことを恩賜の義足といった。これは確か日露戦争の際、傷痍軍人に対して皇后陛下から義足義手が贈られたことに由来する。
戦後、傷痍軍人たちは、さまざまな困難や差別に晒されながら生きていく。「恩給で儲けて、人並みに働けないのに給料だけは一人前」など心無い言葉に傷つけられるのであった。祖国のために戦い傷ついた方々への尊崇の念を忘れてはいけないと思うのであった。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊