笠原良策は、江戸時代後期の種痘医で痘苗の輸入の正式な許可を幕府から得て清国からの輸入を企てたが、長崎にパタヴィアからの痘苗がもたらされことから、それを入手し京都の日野鼎哉らとともに京都に除痘館を設けた。その後、大阪の緒方洪庵に分苗し大阪にも除痘館がつくられた。この痘苗を確実に福井へ持ち帰るため、幼児に種痘を施しまた別の子に得られて痘苗を種痘するという方法をとった。旧暦の11月下旬の栃ノ木峠は豪雪で幼児を連れての道のりは大変だったという。一連の経緯は吉村昭の小説「雪の花」に詳述されている。福井に戻った良策は、先ず自宅に仮除痘館を設けた。
仮除痘館のあったと思われる付近の現在の様子(浜町付近)、碑などはない。
除痘館跡(下江戸町)、現在のフェニックス通り沿いの福井春山合同庁舎前に説明版がある。
自宅の仮除痘館で細々と種痘を続けたが、その後藩営除痘館(下江戸町)が設立され種痘が広く受けいられていくことになる。下江戸町の除痘館は医学所付属の除痘館となり、医学所済世館東側に移転する。フェニックス通り沿いを探したが医学所跡を示す案内はなかった。良策は1860年(万延元年)のころ、白翁と改名している。
翌日、レンタカーを借りて足羽上町にある福井市自然史博物館を訪ねた。博物館はの周辺は公園になっており、博物館のすぐ隣に笠原白翁の業績を顕彰する碑がある。
笠原白翁の墓は、市郊外の大安禅寺にある。福井市自然史博物館から車で20分ほどである。寺は山深いところにあり、バスと徒歩で行くより車の利用をお勧めする。寺で拝観料を納め、猪除けの柵を越えてしばらく階段を上ると幕末の歌人橘曙覧(たちばな あけみ)の墓と歌碑があり、その近くに笠原白翁の墓があった。墓石には笠原白翁君とある。墓石の裏には、明治13年8月23日死と書かれている。
最後に、笠原良策が用いた種痘の道具を供覧する。
種痘針と畜苗用のガラス器である。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊