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医史跡、医資料館探訪記67 シーボルト宅跡とシーボルト記念館を訪ねて

シーボルトは、ドイツ人医師でオランダ商館医として1823年に来日した。1828年に帰国する際、先発した船が難破し積荷の多くが海中に流出したが、一部は日本の浜に流れ着きその中に幕府禁制の日本地図などがあったことから問題になった。いわゆるシーボルト事件である。

今回、長崎を訪れたので、シーボルトゆかりの地、鳴滝を訪ねることにした。長崎駅前駅から長崎電気軌道3号系統(路面電車)蛍茶屋行きに乗り、電車はゆるい登り斜面を登りながら新中川町駅に到着した。下車進行方向に100mほど進んだところにある交差点を鋭角に左へ曲がり、すぐのT字路を右に曲がりながら、長崎県立鳴滝高校方向に進んでいくと案内板がある。

鳴滝高校グランド前の案内板

道なりに進んでいくと左手に小道があるので入っていくと公園のような敷地があるこれがシーボルト宅跡である。

左手がシーボルト宅跡
シーボルト宅跡入口。シーボルト宅跡と記念館の位置関係がわかる

シーボルト宅跡はいわゆる鳴滝塾の跡で、ここで日本全国から集まった若者たちに自然科学や西洋医学の学び舎であり、診療所でもあった。鳴滝塾では、高野長英二宮敬作伊東玄朴戸塚静海岡研介など50人以上が学んだ。またシーボルトは日本人女性 滝と所帯を持ち、のちに娘(滝本イネ)を授かった。

史跡シーボルト宅跡の石碑
シーボルトノキ。この木は、牧野博士が長崎出島のシーボルトの居宅で見付けてRhamnus sieboldiana Makinoと命名したが、その後、中国原産で既にRhamnus utilisと名付けられていることが解った。日本に自生するクロウメモドキ(Rhamnus japonica var. decipiens)と比べると、やや葉が大型である。
シーボルト宅跡の敷地の全景。ここに木造2階建ての鳴滝塾、薬草園があった。
シーベルトの胸像

隣接地のシーボルト記念館へ移動する。レンガ造り風の建物がみえる。

シーボルト記念館全景
若き日のシーボルト
記念館2階の青年シーボルト像

シーボルト記念館は、日本の近代化に貢献したシーボルトを顕彰するために長崎市が設置したもので、1989年(平成元年)10月1日に開館した。国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)に隣接し、建物の外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージしたもの。1階ホール・ロビーでは映像でシーボルトの生涯を紹介しており、2階常設展示室ではシーボルトの生涯と功績を6つのコーナーに分けて展示してある。3階企画展室は来館時閉鎖されていた。

館内展示室は写真撮影禁止なので、長崎市のシーボルト記念館のホームページを参照してほしい。

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊