令和5年度第2回企画展「病と生きるー江戸時代の疫病と幕府医学館の活動ー」が、国立公文書館東京本館(千代田区)で令和5年10月21日(土)〜12月17日(日)に開催された。
幕府医学館というと将軍家の奥医師多紀元孝が1765年(明和2年)江戸神田佐久間町に設けた私塾を、1791年(寛政3年)幕府の直轄にしたものをいう。神田佐久間町は現在の秋葉原の東側(台東区浅草4丁目)に位置し、以前は写真に示すような案内板が設置してあった。
幕府内では、旧来からの漢方医が長くにわたり幅を利かせていたが、幕末においては天然痘の予防接種にあたる種痘が蘭方医のあいだで広がりをみせるなか幕府奥医師にも蘭方医が取り立てられるようになっていく。
幕府の奥医師といえば多紀家であるが、今回の企画展では多紀家に限らず江戸時代の医学というものに焦点をあて幅広く解説されていた。
「人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)」に描かれた江戸時代の医師たちでは、歯医師・外科の解説があり興味深かった。いわゆる内科である漢方医が本道、歯医師・外科が本道以外という点は西洋のそれと通じているように思われる。西洋でも、内科医の方が地位が高く、外科は床屋から派生した職業的な身分の低いものとあつかわれていた。
小児医師が数ある医師の中でも最も難しいとされていたという。大人に比べて子どもは自ら症状を述べたりするのが難しく、くすりの加減も難しいからであろうか。
上の写真、「大坂堂島医師杉本一斎長寿之事」の書上によると一斎は数え年で126歳、容姿は60~70歳で歯も抜けておらず眼鏡いらずで、妻は38歳、子どもは18歳と14歳で現役医師という。驚愕の生命力、本当の話しであろうか。誠に羨ましい限りである。
上の写真、多紀元悳(たき もとのり)が医師の心得を記した「医家初訓(いかしょくん)」に次のように記している医師として最も恥ずべきは本業である医術が下手なことであり、実力がないのに裕福な医師について「医ノ名ヲ以」て名誉とお金を得て豊かに暮らす「医賊」であると断じている。
天然痘(種痘)
人類が唯一撲滅できた感染症といえば天然痘であるが、それらの予防法としては種痘が知られている。種痘には、人痘と牛痘がありそれらについても資料の展示があった。
中国(清)の医学書「御纂医宗金鑑(ぎょさんいそうきんかん)」に人痘種痘法に関する記載があり、痘痂(とうか)を細かく挽きそれを銀管に入れ鼻孔に吹き込む方法で、男ならば左の鼻孔に女ならば右の鼻孔に吹き入れたという。
「引痘略(いんとうりゃく)」は牛痘の発見の経緯や痘の種を牛から採取する方法や牛痘種痘の方法が書かれた中国(清)の書。
コレラ
「年表続紹録(ねんぴょうぞくしょうろく)」には、1858年(安政5年)から1864年(元治元年)までの政治・社会の出来事を時系列に記録したもので、1858年(安政5年)5月21日にアメリカ艦船ミシシッピ号によりコレラがもたらされ、長崎から流行が始まり江戸では7月ごろから大流行したことが書かれている。
「朝野纂聞(ちょうやさんもん)」は浅野長祚が記した書で、そのなかでコレラの治療法・予防法を長崎留学中の幕府医官松本良順に書かせたのが「古列刺撮要方(これらさつようほう)」である。
梅毒
「当代記」は戦国時代から江戸時代初頭までの政治経済が詳述された書で、著者は徳川家康の孫、松平忠明といわれている。1607年(慶長12年)閏4月8日家康の次男結城秀康が唐瘡(とうそう)で亡くなった。唐瘡とは梅毒のことである。家康は自分の侍医である「盛法印」(坂浄慶(1554~1614)))、「驢庵(ろあん)」(半井成信(1544~1638))、「道三」(二代目曲直瀬道三の曲直瀬玄朔(1549~1631))が治療にあたったがその甲斐もなかったと書かれている。
「形影夜話(けいえいやわ)」は、杉田玄白が70歳のときに鏡に映る自己の分身であるの影法師と対話形式で、自分自身の医学観や所信について綴った書。梅毒に関して百発百中の処方がなく数万人の梅毒患者のうち治療ができたのはわずかに数えるばかりであった嘆いたという。梅毒の病因も治療薬もなかった時代に、数えるばかりでも改善例があったのは驚きである。
江戸幕府の医療政策と医学館
「普救類方」は、8代将軍徳川吉宗の命を受け、幕府医師の林良適(はやしりょうてき)と丹羽正伯(にわしょうはく)は紅葉山文庫所蔵の医書の中から、辺地に住む庶民にも入手可能な薬や簡単な治療法を選び、それらを平易な和文で紹介した書。
朝鮮人参は、朝鮮や中国の自生しているものを探して採取していたことから、非常に高価なものであった。当初は、朝鮮人参の苗を手に入れ育当てようとしたが上手くいかず、その後種子を手に入れ工夫して栽培できるようになった。吉宗はこの朝鮮人参の国産化にも尽力しており、「朝鮮人参耕作記」はその栽培法が挿絵とともに平易な文書で記されている。
「広恵済急方(こうけいさいきゅうほう)」は10代将軍徳川家治の命で、医師がいない土地の人々、治療方法を知らない人々医師を呼びたくても呼べない人たちのために救急治療の方法を記した書物で、幕府奥医師多紀元悳が著した。
「憲教類典(けんきょうるいてん)」には、江戸幕府奥医師の多紀元孝が医学校の創立を願い出たことから、幕府がこの願いを聞き入れ、躋寿館(せいじゅかん)(医学館)における医道の講釈について、幕府医官の子弟、藩医、町医者に至るまで、すべての医道を志す者が自由に参加できる旨の通達が収録されている。
このブログでは展示物の一部を紹介した。本企画展は大変充実した内容であった。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊