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医史跡、医資料館探訪記72 助産師の先駆け津久井磯ゆかりの隆興寺を訪ねて

私が津久井磯(つくい いそ)を知ったのは、公許女医3号である高橋瑞(たかはし みず)の伝記「明治を生きた男装の女医ー高橋瑞物語」(田中ひかる著)を読んだからである。

津久井磯の肖像

元水戸藩士の家に生まれた磯は、1853年(嘉永6年)津久井家に嫁いだ。夫の津久井文譲も西洋医学を学んで産科医として開業していたが生活は楽ではなかったので、磯はその窮状を救うべく産婆として働き、夫を助けることを決心した。夫から産科学を学ぶと共に臨床実習を行った後、1870年(明治3年)8月に産婆を開業した。

折しも産婆には規則ができ、開業には免許を要するようになった。それまでの産婆は資格も免状もなく、ときには堕胎や間引きもし非衛生的な処置から妊婦の死につながることもあったため、東京府産婆教授所が1875年(明治8年)に設置され、正式な産婆教育の始まった時代であった。磯は上京して産婆教授所で学び、資格を取得。内務省発行による免許証を持つ、数少ない産婆の1人となった。すでに産婆として十数年の実務経験を積んでいた上に、夫からは医学も学んだため評判はさらに高まり弟子を取るようにもなった。その弟子の一人が高橋瑞である。磯は自分の後継者に高橋瑞をと考えていたが、高橋瑞は医師を志したので医学生時代を支援している。

磯は1888年(明治21年)、群馬初の私立産婆学校である私立上毛産婆学校を設立し校長に就任した。 さらに産婆界全般の資質向上を目指しての組織作りにも奔走し、同1888年に群馬産婆会を立ち上げ、初代会長に就任した。

1910年(明治44年)病気82歳で病没した没後、磯に師事していた高橋瑞子は、顕彰碑の建設のために津久井家の子らと共に奔走した末、1918年(大正7年)津久井家の菩提寺である前橋市三河町の隆興寺に、遺徳碑が建立された。 発起人の筆頭には「高橋瑞」の名がある。 同年の除幕式には、瑞子も晩年で病気がちの中で参列した

隆興寺はJR両毛線前橋駅北口から徒歩10分くらいにあり、山門近くの道路には隆興寺の案内が建っている。

津久井孺人遺徳碑
山門脇の墓所に磯の墓はあった
磯の墓
側面には津久井文譲妻 磯と書かれている

女性が職業をもち自立することが難しかった時代にそれを成し遂げ、後に続く者への支援も怠らなかったことは称賛に値する。

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊