医術開業試験に合格した3人目の女医である高橋瑞(たかはし みず)の伝記「明治を生きた男装の女医ー高橋瑞物語」(田中ひかる著)を読んで、聴講生ではあるものの自国民の女性にすら門戸を開いていなかったドイツのベルリン大学で医学部の授業を受けたという事実が衝撃的であった。
瑞は西尾藩(現 愛知県)の中級藩士の家に生まれたが、明治になり没落藩士になり生活は困難を極める。父は高名な漢学者でもあり、瑞も向学心をもっていたが、家督を継いだ長兄から「女に学問は不要」といわれる。養子の話しがあり上京するも破談となり、住み込みである家の手伝いに入る。住み込みで働いていた家の者から、教師である弟との縁談をもちかけられる。教師の伴侶となれば、読書をしたり勉学ができるかと期待し結婚をするが、家事を強いられ夫が吝嗇化であったため生活費も事欠くような状態で勉強どころではなかった。その上、夫から暴力を振るわれ、1年ばかりで離婚となる。
内職での収入は限られており、生活は困窮する。瑞は手に職を付けることを考え、産婆への道を志した。
群馬の産婆会会長である津久井磯が、前橋で数人の助手を雇って開業していたことから、1879年(明治12年)瑞は前橋に移り、磯の助手として住み込みで勤め始めた。
折しも1876年(明治9年)に、東京府で産婆教授所が設置されて以来、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期であった。磯は瑞に正式に産婆学を学ぶことを勧め、1881年(明治14年)に産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾(こうきょうじゅく)(後の東京産婆学校)で学んだ。学費は磯が援助した。瑞は磯の助手として産婆の実践を学ぶことに加えて、この紅杏塾でその実践を裏付ける理論を学んだ。
諸説あるが瑞は産婆の限界というか、産婆では救えぬ命があることを承知していたので、将来医師になるための学費を稼ぐ手段として産婆業に努めたと考えられる。当時は、医学校の入学も医術開業試験の受験も女性には認められていなかったため、1883年(明治16年)に内務省衛生局長である長与千斎に直訴して現状を訴えた。長与の返事は「もうしばらく待て」とのことであった。瑞は、勉強のために大阪の病院での実地で内科、外科、産婦人科を学んだ。
1883年(明治16年)10月、内務省で女子の開業医試験の受験が許可され、翌1884年(明治17年)に荻野吟子が医術開業試験に合格した。女子も入学可の医学校としては成医会講習所(後の東京慈恵会医科大学)があったが、月謝半年分の前納が条件であったため学費不足から断念した。続いて前納金の不要な月謝制の済生学舎(後の日本医科大学)の門を叩いたが、当時は女性の入学を認めていなかったので瑞は創設者の長谷川泰に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くした。その後(1884年(明治17年)12月)、長谷川に入学を認められたが、瑞は常に男子学生から嫌がらせの対象となった。
1885年(明治18年)に、医術開業前期試験に合格した。続く後期試験にあたっては臨床試験があったため、順天堂医院に実地研修の申し入れたが、やはり女子は不許可であった。偶然にも、当時の自宅の隣人が順天堂医院の院長である佐藤進の甥であり、瑞子の猛勉強ぶりを知っており、この甥が佐藤に進言したことで受け入れが許可され、同医院で女性初の医学実地研修生となった。
1887年(明治20年)3月には後期試験に合格、翌1888年(明治21年)、36歳にして日本で第3の公許女医として登録された。試験に合格後、日本橋で医院を開業し盛況を誇ったが、多くの患者に接する中で自らの未熟さに気づかされることもあったという。
1890年(明治23年)、38歳のときベルリン大学で特に産婦人科学を学ぶことを望んだ。ドイツ語の家庭教師を雇うが、片言のドイツ語しかできないままドイツに旅立つ大学への紹介状ももたずにである。ベルリンでの瑞子の下宿先は、薬学者の長井長義や理学博士の田中正平がドイツ留学時に滞在した場所であり、そこの女主人マリーは日本人から「日本婆さん」と呼ばれるほどの親日家でかつ聡明な人物であり、彼女が瑞をベルリン大学医学部教授に引き合わせ尽力したことで、講義の聴講が許されたのであった。
翌1891年(明治24年)、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り病気を患って吐血した。先滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、帰国を余儀なくされた。帰国後、再び開業するがドイツ帰りと評判になる。「歳をとって、万が一にも誤診をしては大変なことになるから、60歳で廃業する」と以前から宣言しており、その言葉通り1914年(大正3年)の還暦の祝宴で引退を表明して潔く引退した。
産婆として学んでいた津久井磯は瑞子にとって終生の恩師であり、終生にわたり、親戚同然に温かく交際を続けた。磯の没後には、顕彰碑の建立のために奔走した。
晩年は病気がちとなり、1927年(昭和2年)2月23日に風邪をひき、24日に肺炎を併発した。同年2月28日、右肺上葉クループ性肺炎により76歳で死去した。生前より親交のあった吉岡彌生に死後は 「私の体を解剖して、学生たちの研究に役立ててほしい。骨も焼いては勿体ないので、標本にして教材にしてほしい」 と申し出ており、東京女医学校(後の東京女子医科大学)で解剖実習に供された。解剖後の遺骨は骨格標本「高橋先生のお骨」として、現在も東京女子医科大学の校宝として保管されている。
瑞子が生前に、東京都世田谷区の豪徳寺の住職と親交があった縁で、1933年(昭和8年)に近親者により、豪徳寺に記念碑が建立された。豪徳寺の正門からまっすぐ進み三重塔を過ぎたところを左に曲がり井伊家の墓所に向かう途中に右手に高橋瑞子彰功之碑がある。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊