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医史跡、医資料館探訪記74 助産師村松志保子ゆかりの地を訪ねて

助産師村松志保子を知ったのは、西條敏美著「理系の扉を開いた日本の女性たち―ゆかりの地を訪ねて」を読んだからである。

JR両国駅西口から隅田川沿いに国技館通りを北に向かって15分ほど歩くと老人保健施設「ろうけん隅田秋光園」があり、その角に助産師教育発祥の地の解説パネルがある。この地に村松志保子が安生堂医院を、さらに女性の地位向上のために淑女館と安生堂産婆学校を設立したので、それを記念しての解説パネルである。

ここで村松志保子について詳しく触れていく、現在の群馬県、沼田藩藩医の村松玄庵の長女として、1854年(安政元年)7月23日に江戸藩邸(東京都港区)で生まれる。1870年(明治3年)より、御殿医である父から漢方医学と鍼を学んだ。村松家には、志保子より先に男児が3人いたが、3人ともすでに早世し、他に父の医術を継ぐ男児がいなかったため、志保子は女医を志したという。

1873年(明治6年)に、医師の男性を婿に迎えたが、後に離縁している。

文献等を調べてみると1881年(明治14年)に安生堂産院(安生堂医院)として開院しており、これが本邦初の産院であることは間違いないが、安生堂産婆学校に先立ち1876年(明治9年)に東京府病院産婆教授所、次いで1880年(明治13年)紅杏塾 (こうきょうじゅく)(後の東京産婆学校) は創設されていることから助産師教育発祥の地との表現はいかがなものであろうか。ちなみに先月のブログで紹介した高橋瑞は紅杏塾で産婆技術を学んでいる。

志保子の経歴は1892年(明治25年)3月20日(日曜日)の読売新聞に雑報として掲載されている(「ヨミダス」で村松志ほ子で検索すると出てくる)。

1892年(明治25年)3月20日(日曜日)の読売新聞

ここで記事に「産婆学の必要と感じ済生学舎に入り桜井学校に通い東京府産婆養成所に投じ蛍雪効積み、、、」とあるが、済生学舎に高橋瑞が入学が認められたのが1884年(明治17年)12月であるから、それに先んじて入学していたことになる。一般的には高橋瑞が女子学生1号とされているが、志保子がどのような形で済生学舎で学んだかは不明である。推測にはなるが、産婆学に関係するところだけ聴講したのではと思っている。志保子は済生学舎を卒業しておらず、医術開業試験も受験していないからである。桜井学校とは、桜井看護学校(現 女子学院)のことであろうか?桜井看護学校が、アグネス・ヴェッチをアメリカから招きトレインド・ナースの養成を始めたのが1886年(明治19年)であることから、志保子は桜井学校では少なくとも看護学は学んでいないと思われる。

JR両国駅に戻り総武線各駅停車で秋葉原へ向かい、山手線で日暮里へ向かった。谷中霊園に志保子の顕彰碑があるからである。乙2号4側に父村松玄庵の墓と並んで志保子の顕彰碑があった。

父玄庵の墓
村松志保子之碑

医師から助産師になり産婆教育に尽力したとするものもあるが、果して医師であったのかについても疑念がある。博愛と慈悲に満ちた素晴らしい人物であると思うと、過大な経歴を語る必要があるのか疑問であり残念でもある。

参考文献

1)小山田信子:1890年に官立産婆学校が設置されるまでの東京における産婆教育,日本助産学会誌,30(1)99-109,2016.

2)石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その250),ペリネイタルケア,25(12)80-82,2006.

3) 石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その251),ペリネイタルケア,26(1)56-57,2007.

4) 石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その252),ペリネイタルケア,26(2)87-89,2007.

5) 石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その253),ペリネイタルケア,26(3)109-111,2007.

6) 石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その254),ペリネイタルケア,26(4)77-79,2007.

7) 石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その255),ペリネイタルケア,26(5)97-99,2007.

8) 石原力:助産婦の歴史ー近代助産婦(その256),ペリネイタルケア,26(6)73-75,2007.

9)読売新聞 第5279号,明治25年3月20日朝刊3頁,雑報

10) 石原力,原島早智子:本邦嗜矢の産院設立者村松志保子の安生堂とその慈善事業,日本医史学雑誌,52(1)58-59,2006.

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊