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医史跡、医資料館探訪記76 井上眼科病院創設者井上達也ゆかりの地を訪ねて

井上眼科病院創設者井上達也は、1848年(嘉永元年)生まれ。徳島藩医井上肇堂(ちょうどう)の4男。大学東校でレオポルト・ミュルレルの指導を受け、若くして独・仏に留学、当時の先端の眼科学を吸収して帰国した。東京医学校(現 東京大学医学部)と改称した母校で1876年(明治9年)日本人初の眼科学教授となる。1881年(明治14年)神田駿河台に井上眼科病院を創設した。

井上達也の肖像
1878年(明治11年)東京大学医学部別課生の教授兼任、医学部通学生眼科臨床教授を担当
1890年(明治23年)煉瓦造り4階建ての新病院、無菌手術室をはじめ画期的な新設備を導入

井上達也は白内障手術の第一人者であり、また眼科学会の前身となった「井上眼科研究会」の会頭となる。1895年(明治28年)7月15日落馬により死去。この辺りのことは、小説「高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ」にも詳しく書かれている。

井上達也の墓は、東京都北区田端の大龍寺にある。JR京浜東北線田端駅北口から徒歩12分くらいである。門を潜り本堂左手に進むと墓地がある。墓の周囲は壁で囲まれているとの事前の調べで確認していたので、それを目印に探した。墓はすぐにみつかったが、墓は雑草が蔽い茂り荒れた感じであった。

門を潜り本堂左手を進むと墓地がある
井上達也の墓、周囲を壁で囲まれている
井上達也の墓
戒名が記されている
明治28年7月15日没 井上達也 行年(ぎょうねん)48とある

井上家の墓は谷中霊園(甲4号8側)にもあり、井上達也の顕彰碑もあるので訪れたが、そちらは手入れが行き届いていた。

井上達也の顕彰碑

顕彰碑は、さくら通りとぎんなん通りの交差点、駐在所の向えにある。顕彰碑の裏側に井上家の墓がある。

井上家の墓誌 達也の息子(養子)の井上達七郎の名が記されている
井上家の墓、大龍寺の井上達也の墓に比べ手入れが行き届いている

井上眼科病院創設者の井上達也の墓が、荒れ果てていたことは残念であった。残された親族が、複数の墓を手入れすることの難しさはよくわかるが、どうにかならないものであろうか。

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊