右田アサ(みぎたあさ)について詳しく知ったのは、小説「高津川 日本初の女性眼科医 右田アサ」 を読んでからである。アサは、浜田県美濃郡益田村(現在の島根県益田市)の出身で1871年(明治4年)年、寺井孫一郎の長女として生まれる(出生日には諸説あり、前年の1870年(明治3年)生まれとするものもある)。7歳のときに益田村の名家である右田家の養女となった。1877年(明治10年)アサは益田小学校に入学した。アサは、祖父と以前から論語の素読をやっていてかなりの章を暗誦していたし、計算も得意であり、利発は子であった。
14歳の時、近くの寺で開かれている私塾の講義を聴こうとするが、女子の入塾を許しておらず掃除婦に扮して聴講した。塾頭は「女は男たちの学問の妨げになる」という理由から当初入塾を認めなかったが、衝立の裏側で聴講するならよいと許可が出る。
16歳の時、アサは医師になること強く思うようになったが、問題は右田家の財政であった。旅費、生活費、入学金、束脩(月謝)、教材費、試験料などを合わせると最低300円はかかると思われ、小学校教員の初任給のおよそ3年分に相当した。医術開業試験に女性の受験が認められ荻野吟子という産婦人科医が誕生したことや、東京の医学校、済生学舎(現 日本医科大学)が女性の入学を認めた時代の流れもあり、「女でも優れた者が世の中で活躍することは、道理に合わないとは言えない」と祖父が後押ししてくれた。右田、寺井両家だけでなく支援者の協力を取り付け、東京行きが実現した。
1887年(明治20年)の後半か翌88年(明治21年)の春に上京、1888年(明治21年)5月に済生学舎に入学した。1889年 (明治22年) に医術開業前期試験に合格した。
済生学舎では、ふたりの親友ができた。同郷の千坂タケと、東京育ちの本吉ソノである。彼女たちは「三幅対」と呼ばれ、いつも一緒でだった。本吉ソノは、後に日本女医会の創設者となる前田園子である。
本吉ソノが敬虔なクリスチャンであったことから、3人でお茶の水のニコライ堂を訪れることもあった。本吉ソノはその後結婚し、2人と距離を置くようになる。
千坂タケが肺病を患い体調を崩したため、アサはタケの看病に追われる。1892年 (明治25年) 5月の後期試験ではソノだけが合格し、タケは棄権、アサは落第してしまった。
「12月の後期試験こそ。」と誓ったアサでしたが、タケが倒れ、追い打ちをかけるように臨床実習の試験合格証をもっていなければ医術開業試験を受験できなくなった。
アサは後期試験の受験を断念しタケの看病に専念しましたが、その献身も空しく1893年(明治26年)2月、タケは帰らぬ人となった。
困窮を極めた中、復学を果たし、1893年 (明治26年) 3月に臨床実習合格証書を手に入れ、同年5月、21歳にして、ついに後期試験に合格した。
医術開業試験に合格を果たしたアサは、外科医の田代義徳らの経営する田代病院に勤務した。しかし、女性であるアサを医師として認める者はおらず、任された仕事は、患者の搬送や包帯の交換など、看護師同然のものに過ぎなかった。
アサは借金の返済のために同院で働いたものの、仕事のやりがいのなさに疲弊し、1894年(明治27年)7月に田代病院を退職した。
1895年(明治28年)、ふとした偶然から、当時の著名な眼科学者である井上達也が院長を勤めるお茶の水眼科病院(後の井上眼科病院)に飛び込み就職を希望した。院長の井上達也は驚きつつも、アサの申し出を了承した。眼科病院での月給は車夫ほどの安さであったが、アサは医師として認められることに満足感を得た。
同僚の若手男性医師たちから疎まれながらも、アサは懸命に働いた。手術準備係を担当していたアサは、ある日、体調不良で欠勤した先輩医師の代打として手術助手を命じられる。この仕事は、院長井上達也の執刀を間近で見ることができる唯一のポジション。達也の采配は、女医を蔑んでいた男性医師たちに否応なくアサの実力を認めさせた。
しかし、アサが達也に師事した期間は、わずか2か月であった。 1895年(明治28年) 7月、達也は落馬事故で亡くなった。達也の死後、息子(養子)の井上達七郎が院長の後を継ぎましたが、間もなく彼はドイツ留学のため日本を離れます。これとほぼ時を同じくして、アサは静岡の「復明館眼科医院」へ出向となった。
1897年(明治30年)12月、井上達也の没後に跡を継いでいた養子の井上達七郎がドイツ留学から帰国し、アサは眼科学の最前線で働くため、達七郎のようにドイツへ留学したいという新たな夢を抱き、お茶の水眼科病院に復職した。達七郎はアサの実力に加えて、父から生前に「アサを養子にしてでも留学させてやりたい」と聞かされたこともあり、アサのドイツ行きを快諾した。
同時期に、かつて井上達也が創始した「井上眼科研究会」の再開の声が高まり、達七郎は学術団体「お茶の水眼科同窓会」を発足させ、アサもこれに参加した。アサはこの会での発表に向け独自に研究を開始、診療の合間を縫ってデータ収集に奔走した。
ドイツ留学への夢が実現する直前、1898年(明治31年)に東京で26歳で死去した。明治31年10月31日発行のお茶の水眼科同窓会会報第2号に、右田アサの訃報があり、「故当会員右田朝子女史は去る8月5日肋膜心包炎にて逝去した」と記載されている。墓碑は郷里である島根県益田市七尾町の暁音寺にある。
死去の翌年の1899年(明治32年)、アサの知人たちの尽力により、アサの医学への熱心さ、心がけの見事さを後年に伝える目的で、井上達也の墓がある東京府北豊島郡(後の東京都北区)の大龍寺に、顕彰碑「女醫右田朝子之碑」が建立された。没後から1年を経ずに建てられたもので、碑文は軍医総監の石黒忠悳が担当した。碑の裏に彫られた発起人のなかには、右田アサの親友本吉ソノの名もある。
アサの郷里である島根県益田市も機会があれば訪れたいと思っている。
二子玉川ステーションビル矯正・歯科
小児歯科担当 髙見澤 豊