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医史跡、医資料館探訪記79 賀川玄悦ゆかりの地を訪ねて

わが国の近代産科学の基礎を築いた賀川玄悦(げんえつ、字・子玄)は、植松三十里著「千の命」でその生涯が紹介されている。1700年(元禄13年)、近江国彦根生まれた。父は長冨三浦軍助といい槍術の達人として彦根藩に仕えていたが、玄悦は庶子だったため家督をつぐことができず、7歳で家を出され、母の実家に養われて賀川姓を名のった。母の実家は農家であったが、彼は農業には従事せず、鍼灸・按摩を学んだ。30歳を過ぎてから郷里を捨て医術を学ぶため京都に行き、古鉄銅器商・鍼灸で生活をたてながら独学で古医方と産科学を学んだ。

京都の居宅跡が、今回訪れた玉樹寺であり、玄悦の墓所でもある。

産科医として多くの臨床体験を積む中で、母子をともに守る目的で出産用の鉗子(この鉗子は、京都下京区にある眼科・外科医療器具博物館に展示してある)を発明するなど産科医療の発展に尽くした。胎児の正常胎位「背面倒首」(胎児が頭を下にし、背を前にむけて位置していること)を世界に先がけて発見したことでも知られる。
ある日、隣家の主婦が難産で苦しんでいたが、玄悦は熟慮ののち、母体を救うことを優先し、器具を膣内に挿入して死胎児に引っ掛けて牽引し母体を救った。この方法は回生法とよばれる。この体験で難産の際には、器具を使用する手術が不可欠のものであると確信し、その後、産科医として手術方法や器具に改良が加えられていった。

67歳の時、『子玄子産論』(単に《産論》ともいわれる)を著した。この書は、漢文が不得手な玄悦のために、皆川淇園(みながわ きえん)が補翼し執筆したもので、出版とともに世間の耳目を集めた。

賀川玄悦の肖像
「産論翼」の図 賀川家の養子となった玄廸が 1775年(安永4年)に、玄悦の『子玄子産論』を増補して『産論翼』を著した
玄悦の墓所 京都市下京区の浄土宗玉樹寺
産科鼻祖 賀川玄悦先生之墓所とある
門をくぐって右手すぐに碑がある。「日本近代産科学のみなもと」賀川玄悦先生没後200年記念記念顕彰会の碑
賀川玄悦先生没後200年記念顕彰会 京都産婦人科医会、近畿産科婦人科学会、日本産科婦人科学会、日本母性保護医協会、日本医師会、日本医史学会、京都府医師会、徳島県医師会と書かれている。晩年徳島藩医を勤めていたことから徳島県医師会の名があるのであろう
中央が玄悦(子玄)の墓
安永6年9月14日没(1777年10月14日)とある
俳人で産科医でもあった水原秋桜子の句碑「産論の月光雲をはらひけり」
水原秋桜子の句碑の裏面「玄悦先生200年祭にあたり有志これを建つ」とある 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊