NEWS

医史跡、医資料館探訪記82 大阪大学医学史料室を訪ねて

大阪大学吹田キャンパス銀杏会館内にある医学史料室を訪ねた。適塾にはじまる大阪大学医学部の歴史に触れることができる。銀杏会館の新設に伴い開設されたのが本史料室であり、1995年(平成7年)4月22日より公開されている。

銀杏会館の1階に医学史料室がある
1階玄関を入り右手に史料室がある
入場無料 開館は平日の9:30~16:30である
扶氏(フーフェランド)の医戒の略 緒方洪庵訳・筆
洪庵が中天游の門に入るところまで遡っている
薬秤、水さし
大阪仮病院(大福寺)時代の医学校。中央にボーボウィン先生
緒方惟準と3人のオランダ人医師。惟準とエレメンスA.F.ボードウィンマンスフェルトの肖像
左が薬箱、右がらんびき(蒸留器)
奥が薬箪笥、手前が薬研
西本願寺北御堂に大阪府病院が再建され、蘭医エルメレンスが教授として赴任
エルメレンス先生の生理学(講義録)ほか教科書が展示されていた
中ノ島校舎
「皮下注射要略」、「生理新論」、「病院経験方府」、「袖診調薬必携」など明治初期の教科書
西本願寺に校舎があった時の教師エルメレンスの記念碑。現在は大阪大学吹田キャンパスに移設されている
吉田顕三校長が衛生学を中心としたイギリス医学を導入したが、清野勇校長が専門分野別のドイツ医学に転換を図った
大阪府立高等医学校改正規則発布1909年(明治42年)3月1日を学校記念日とし。この日校友会祝賀会を開催、当日の記念写真
辛亥革命時に中華民国留学生たちから贈られた感謝牌
専門学校令により大阪府立医学校から大阪府立高等医学校へ。そこから府立大阪医科大学を経て大阪医科大学になる
大阪府立高等医学校時代の教科書と講義ノート
1902年(明治35年)に校長兼病院長に任命された佐多愛彦の胸像
佐多愛彦は府立大阪高等医学校の大学昇格を目指す。1915年(大正4年)10月28日に府立大阪医科大学となる
小説「白い巨塔」のモデルとなった中ノ島キャンパス
財団法人山口厚生病院から大阪帝国大学に移管されたことを記すパネル(1935年(昭和10年))
竹尾治右衛門は大阪の実業家で私財を投じて大阪高等医学校に結核研究所を建てた。塩見政次は大阪医学校の卒業生で実業家、私財を投じ財団法人塩見理化学研究所を設立した。山口玄洞は実業家で慈善家であり治療費の払えない患者のために山口厚生病院(後の大阪大学医学部山口病院)を設立した
医学部付属山口病院の模型
衛生学教授 石原修の立像。石原修は日本の産業衛生、労働衛生の先駆者といわれている
1930年(昭和5年)に大阪帝国大学の設立運動が起き、1931年(昭和6年)に大阪帝国大学創設の勅令発布。1932年(昭和7年)に医学部内に歯科学講座増設
大阪に国立の総合大学をという運動があり、大阪医科大学を国に移管し理学部を創設して大阪帝国大学とする方針が固まった。1931年(昭和6年)4月30日大阪帝国大学管制が公布された
大阪帝国大学の医学博士学位記
大阪帝国大学創立史とその復刻版
968色標と精密直流電位差計
大阪帝国大学開学式1931年(昭和6年)5月1日、先ず医学部が開設。翌年理学部が、翌々年工学部が創設された
大阪帝国大学から大阪大学へ改称。1949年(昭和24年)医学部内に薬学科が新設され、翌年に同じく医学部内に歯学科が発足。翌々年に歯学部が新設された。1955年(昭和30年)に薬学部新設された
大阪大学医学伝習百年史(右下)
古武弥四郎教授の執務机
緒方洪庵譯述「虎狼痢治準」、1858年(安政5)年秋、大坂でコレラが大流行した際、洪庵が緊急急ぎ出版したコレラの治療指針書。
緒方惟準纂輯「衛生新論」
クーンラート・ヴォルテル・ハラタマ(Koenraad Wolter Gratama)先生の胸像
「日講記聞 産科学」エルメレンス口述 大谷謙斎筆記。講義を筆記した大谷謙斎(1842~1908)は鳥取県の出身、名古屋の塚田謙堂につき儒学を修めた後、大阪医学校に学んだ。 エルメレンスを尊敬しており、その訃報に接した際、記念碑設立の議がおこり、謙斎も率先これに参加、1880年(明治14年) 除幕に至った。
大阪府立医科大学の卒業証書
エルメレンス先生の執務机
大阪府立高等医学校の卒業証書

幕末から戦後にかけての変遷がわかる展示が沢山あり、大変興味深いものであった。

大阪大学といえば、東京大学、京都大学に次ぐ旧帝国大学という印象だが、帝国大学開設という歴史でみると昭和期に入ってからで先行する東京・京都・東北・九州・北海道の既存5帝国大学の後ということになる。しかしながらその源流は、適塾にあること改めて示す展示であった。

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊