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医史跡、医資料館探訪記6    日本医科大学同窓会を訪ねて(その1)

日本医科大学は日本で一番古い私立医学校、済生学舎がはじまりとされてされています。戦前より旧制大学として認められた医科大学は、慶應義塾大学医学部東京慈恵会医科大学、日本医科大学の3校のみであったことから、私立御三家ともいわれています。順天堂大学は、蘭方医学塾として1838年(天保9)に開塾していましたが、明治から終戦まで医学生の卒後教育と臨床に力を注ぐのみで医専(医学専門学校)の設置も戦中、大学設置は戦後でした。

済生学舎の資料が展示されているということから、日本医科大学橘桜会館(同窓会館)を訪ねました。会館は千駄木にあり、夏目漱石の旧居跡に建てられています。事前に問い合わせをしていたので、インターフォンを押すとすぐに入館できました。館内は写真撮影可能でした。資料室というよりも廊下とピロティに展示している感じです。

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医史跡、医資料館探訪記6 日本医科大学同窓会を訪ねて(その1)

済生学舎を創った長谷川泰

済生学舎をつくった長谷川泰は、佐倉順天堂で佐藤尚中に学び、特にフーフェランドの内科書 Enchiridion Medicumの巻末にある「医戒」に感銘し、「済生救民」(貧しくて病気で苦しむ人々を救うこと)、「克己殉公」(己を捨てて他の為に生くることもとより医道の本質なり)を建学の精神とします。長谷川は慶応2年(1866年)松本良順の幕府西洋医学所で外科手術を修めます。慶応4年(1868年)戊辰戦争では、長岡藩に藩医として従軍し、河井継之助の最期を看取りました。

維新後、東京大学医学部の前身である大学東校東京医学校などでの教職を経て、西洋医の早期育成を目的に明治9年(1876年)済生学舎を開学しました。

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済生学舎に学んだ医師は多く、細菌学者の野口英世や東京女子医大前身、東京女医学校を設立する吉岡彌生、小口病の発見者で名古屋医科大学(現名古屋大学医学部)学長も務めた小口忠太などがいます。済生学舎は28年間の活動の後、明治36年(1903年)に廃校を余儀なくされますが、9000名以上の医師、医学者を輩出し、当時の日本の開業医の半数以上が済生学舎出身者でした。

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医史跡、医資料館探訪記6 日本医科大学同窓会を訪ねて(その1)

医史跡、医資料館探訪記6 日本医科大学同窓会を訪ねて(その1) 東京医学専門学校は東京医科大学の前身

済生学舎後、同窓医学講習会、(財)日本医学専門学校を経て旧制日本医科大学となります。

追記

済生学舎ギャラリーとして令和2年8月3日(月)より一般公開されています(要電話予約)。

 

二子玉川ステーションビル矯正・歯科

小児歯科担当 髙見澤 豊